糸若代表の樋口です。新年度が始まりましたが、今年度はワクチン接種で新型コロナも落ち着いていってほしいと願います。
さて、本委員ブログは今回から2周目に突入です。私は1回目であまり自己紹介できなかったので、これまでの研究歴と併せて紹介させていただきます。
実家は埼玉県さいたま市ですが、生まれは新潟県燕市(洋食器で有名)です。ですが、実際は1歳までしかいなかったので生家の記憶は無く、ずっと埼玉育ちで学校は中学から東京でした。私には、皆さんに良くある生物好きみたいなエピソードは皆無で、むしろ自分が何をやりたいかをずっと先延ばしで、のらりくらり生きていました。大学選びも(二浪もして親には大変迷惑をかけました懺悔)、入学時に学部が決まっていないので東大を選びました。ただ、授業を受けているうちに、またゴルフ部の先輩の勧誘?もあり、さらには当時流行りと感じられたバイオテクノロジーが学べる農学部生命化学専修を3年時に選択しました。
そして、今の自分を決定付ける研究室配属では、北本勝ひこ先生が主宰されていた微生物学研究室に2004年4月に配属させていただきました。当時は麹菌Aspergillus oryzaeのゲノム解析がまさに日本の産学官の研究者によって行われていた頃で、研究室紹介の際に、北本先生が「日本の香りのするサイエンスを一緒にやりませんか」というお言葉に惹かれて研究室を選ばせていただきました。卒論配属時には、助教授に中島春紫先生(現明治大学教授)、助手に有岡学先生(現准教授)がいらっしゃり、また博士研究員に丸山潤一先生(キッコーマン寄附講座准教授)と渡邉泰祐先生(日大准教授)、さらに博士課程2年に菊間隆志先生(立命館大助教)がいらっしゃり、今思い出すと先生と先輩に大変恵まれた環境であったと思います。事実、自分で考えてわからないことは、お聞きしてすぐに解決し、迷いなく研究を進められていたと思います。
私は実は研究室配属当初は、周りの大半の学生同様に、修士課程に進学してその後就職を考えており、博士課程進学は毛頭考えていませんでした。ですが、実験が上手くいき始め、自分で色々考えて研究することが楽しくなり、博士課程進学を考えるようになりました。そして先生先輩方の御指導のもと、修士1年の年末頃に論文を出せたことで博士課程進学を決めました。北本先生に御相談と報告の際には、「これからは自分のためだけではなく、社会の役に立つような研究ができるよう一層努めなさい」とのお言葉をいただきました。
北本先生の研究室では当時、国費留学生が多く来ていました。私も博士課程になると、そうした留学生に英語で教える必要も出てきて、研究を続けていく上で、英語でコミュニケーションすることの重要性を痛感しました。また、毎年海外の学会に参加させていただき(ECFG, FGC, IMC等)、一層英語能力の必要性を感じるようになりました。そして学位取得後1年間、北本研でポスドクをさせていただき、その後に英国エクセター大学のGero Steinberg教授の下で3年間のポスドクをさせてもらいました。
Gero(ゲロ)教授はとてもアクティブな先生で、多忙の中でもラボに来ては(教授室とラボスペースは少し離れた場所にある)、「進捗はどうだ?」とよく聞かれたものです。2メートル近くの長身で、しかもいつも急いでいるのか歩くのがとても速く、あちらから突進して来るのが見えるとかなりの威圧感で、さらにノンネイティブ(ドイツ人)にも拘わらずかなりまくし立てて話すので、最初は圧倒されてました。ですが徐々に慣れ、またGero教授もこちらがまずまずやってるなと思われていたのか、問題無く過ごせていたと思います。とにかく研究環境は整っており、またこちらのアイディア次第で自由に研究をさせていただきました。ただ、研究ディスカッションは時にヒートアップすることもありましたが、お互いノンネイティブの英語だからかはわかりませんが、とても論理的に議論できていたと思います。今思うと、そういったサイエンティフィックに内容の濃い議論を普段からできる環境も有難かったです。大学の脇にフラットを借りて、基本寝に帰るだけでラボに24/7常駐し、ラボ警備員化していたので、ラボメンバーにはかなり心配されていました。皆17時頃に帰る際に自分に向かって「Don’t work too hard」とか「Go home」などと茶化されてました。ラボで一人で年越しインスタントラーメンを食べていたときに見回りの警備員2人と会って良いお年をと挨拶したり、真夜中の2時頃に火災報知機を鳴らして警備員を緊急出動させてしまった(乾燥させていたプラスチック容器を中に残したまま乾熱のため温度上昇させてしまい、焦げ臭くて気付いてまだいけると思い開けたら蒸気が一気に噴き出した)ことなどは、ラボ警備員としては不名誉で申し訳ありませんでしたが、大事に至らなかったことを思うと、懐かしい思い出です。ですが、ラボメンバーともちゃんと飲みニケーションを取るために、よく金曜夕方からバーホッピングをして、ギネスを含めエールビールを楽しんでました。ただ、バーで飲んだ後に実験しに帰ると言ってまたラボメンの心配を誘っていましたが。3年が終わりを迎え、九大に赴任が決まりそうな頃に、Gero教授から「まだこっちに残って良い論文を一緒に出さないか」とのお誘いもいただいたのですが、意外と自分は日本食が恋しくなる人間だったようで(当時、和食のユネスコ無形文化遺産登録で特に)、残念ながらお断りしました。
九大農学部(上写真)に赴任してから早8年目となりました。最近では黄麹菌研究グループの学生も10名程いて、細胞内輸送と有用物質生産の研究を鋭意進めております。なかなか管理業務とで自分で実験する時間は作れませんが、とは言っても、まだ手を動かせる(と本人は思っている)うちに実験をやっておきたいと思う今日この頃です。ただ、まとまった時間が取れて計画的に実験できるのは8月の1カ月というのが現実なのですが、、、でもこれは不満では無く、立場によってやるべきことが変わってくるのは仕方のないことだと思います。そしてそういう立場になってみて、自分の好きな時に好きなだけ実験をさせてもらっていた学生、研究員時代がもはや懐かしくもあり、そうした環境を与えていただいていたことにとても感謝しております。自分も早くそうした満足できる環境を提供できるようになりたいとも考えております。
最後に恒例となりました「ゴルフから学ぶ」のコーナーです。我が心の師、タイガー・ウッズ事故重体の衝撃ニュースが世界を駆け巡ってからはや2カ月が経ちました。奇跡の生還を遂げたものの、残念ながら今年のマスターズに彼の姿はありませんでした。しかしそのような中で、マスターズ初制覇という日本ゴルフ界における大偉業を達成したのが、そう、松山英樹プロです。彼はこの4年間のあいだ勝利から遠ざかり、悩みもがき続けていました。そうした中でも、彼はしっかりと準備を重ね、コーチ、トレーナー、キャディー、通訳といったチーム松山とともに努力を怠ることはなかったそうです。彼はもともと練習の虫で、努力の天才でもあるけれど、近年の不調であえぐ中、下記ように考え方を変え、それが今回の大偉業に結び付いたそうです。以下、引用
『「自分ひとりで、何がダメだとか、フィーリングだけでやっていた。自分が正しいと思い過ぎていた。コーチを付けて、今は客観的な目をもってもらいながら正しい方向に進んでいる」
頑固なまでに「自分だけ」を貫いてきた松山が、そんな言葉を口にしたのは初めてだった。勝利から遠ざかり、苦しんだ4年間の歳月は、松山に謙虚さをもたらした。そうやって気持ちの上で成長し、変化したことが、彼のゴルフそのものの変化と成長につながった。その先に待っていたのが、マスターズ優勝だった。』(NumberWeb, 2021/04/12, 舩越園子著より引用)
いかな天才でも本当の世界のトップが争う中では独り善がりではダメだということ。逆に言うと、良いチームの中で自分の能力・立場を客観的に分析し、やるべきことを地道に続けていくことが大きな成功につながる。今回の日本人初のマスターズ王者は、まさに研究の世界にも当てはまることを再認識させてくれました。ありがとう、そしておめでとう、ヒデキ!
それでは、引き続き次回以降のブログにも乞うご期待ください。
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